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特別上映!伝説のウィーン・アクショニズム! 
〜身体・行為・饗宴〜
オットー・ミュール、ギュンター・ブルス、クルト・クレン〜


すべてが許され、なんでも見られるようになった現代においても、いまだショッキングでありつづける映画がある。
柳下毅一郎(映画評論家)

クルト・クレン
『Action Films』

1964-1967年、16mm→デジタル

‘60年代で最も過激なアートムーブメント“ウィーン・アクショニズム”。その代表格であるオットー・ミュールとギュンター・ブルスの戦慄的パフォーマンスの数々を実験映画作家クルト・クレンが記録した貴重な短編集。曝され、汚され、陵辱される肉体。嘔吐、自傷行為…。タブーに踏み込む身体表現が、クレンのミニマルで高速なカッティングにより、詩的な美しさに昇華される。松本俊夫『映画の変革』で紹介された『20.September』やミュールのパフォーマンス記録の参考上映付き。アートファン垂涎のプログラム!

ウィーン・アクショニズム

1960年代、オーストリアのウィーンで展開された過激な芸術運動。動物の解体、内蔵と血による魔術的儀式を展開したヘルマン・ニッチ(1938〜)、身体を素材とし、体液と画材が入り交じるマテリアル・アクションを演じたオットー・ミュール(1925〜2013)、自傷を含む過激な身体性を追求したギュンター・ブルス(1938〜)のウィーン三羽烏に、痛みと損傷による死と美を体現し、28歳で投身自殺したルドルフ・シュヴァルツコグラー(1940〜1969)を加えた4人のアクショニストたちは、互いに刺激し合い、時に共同作業を行う緩やかな連帯の中、それぞれの表現を追求し、既存の芸術を超えようとした。ニッチは「アクショニズムは組織化されたものではなく、アーティストたちがある特別な状況の中で出会い、反応することで、似たような手段と成果が現れたものだ」とコメントしている。
 完成した作品よりも制作行為そのものを芸術として提示する姿勢と身体性へのこだわりは、同時期に出現したフルクサス、ハプニング、パフォーマンス・アート、ボディ・アートなどと共に“アクション・アート”にカテゴライズされるものだが、その暴力的で挑発的な表現行為(アクション)の衝撃度は、他のアクション・アートの追従を許さない独自性を持っている。そのアクションは映画作家、写真家によって記録され映像作品として残されているほか、アーティスト自身によっても映像作品化されている。
 しかし、その反社会、反モラル的表現によってメンバーは度々逮捕、国外逃亡の憂き目に遭い、60年代終わりには運動は次第に終息。シュヴァルツコクラーの死もあり、70年代になるとアクショニストたちは個々の道を歩み始める。
 80年代からウィーン・アクショニズムの芸術運動としての復権は次第になされ、現在では戦後オーストリアを代表する芸術運動として認識されている。世界各国でそれぞれのアーティストの作品展示が行われ、ニッチの作品は2008年横浜ビエンナーレでも公開されている。


PROFILE

クルト・クレン(1929-1998)

オーストリアのウィーンに生まれ、
1950年代初期から8mmフィルムによる短編実験映画制作を開始し、’57には16mmによる映画作りを始める。
’64年からはウィーン・アクショニズムのオットー・ミュール、ギュンター・ブルスらと活動し、そのパフォーマンスを撮影・編集した一連の短編を発表、その名を知らしめた。彼らのアクションを素材(マテリアル)として構築した実験映画は、ミュールのマテリアル・アクションと呼応していたといえよう。
’66年、ロンドンで開催されたアンダーグラウンド、カウンター・カルチャーのシンポジウム“Destruction in Art Symposium”に参加。’68年にはアメリカを訪れ、作品をニューヨークとセントルイスで上映。同年、ミュール、ブルスらが逮捕されたウィーン大学でのイベント『Kunst und Revolution(Art and Revolution) 』への参加により、クレンのフィルムは没収され、長年勤めていた銀行を解雇された。
’70年にロンドンの国際アンダーグラウンド映画祭、’71年にはカンヌ映画祭に参加。以降、5年間をドイツのケルンで過ごした。’76年にロンドン、’79年にはニューヨークのMOMAでクレンのレトロスペクティブが開催されている。
’78年から’89年までアメリカに移住したクレンは、大学や映画学校の講師、美術館の警備員など様々な職につき、アメリカを旅して『Bad Home Movies』と呼ぶ一連の作品を制作した。’80年初頭にはテキサスのパンクシーンに深く関わり、ライブで自作を映写したりしている。パンクバンド・Really Redは彼に『Ode to Kurt Kren』を捧げた。
’89年にウィーンに帰国。’90年代にはフィルム作品が世界中の美術館やシネマテークで上映された。’98年、肺炎によりオーストリアのウィーンで死去。

オットー・ミュール(1925-2013)

1962年にヘルマン・ニッチェと共に初の『公開アクション』
を行ったオットー・ミュールは、裸体と汚物と食物と絵の具が入り交じるインモラルで挑発的な『マテリアル・アクション』を展開した。初期のアクションは、クルト・クレンによって撮影、作品化されているが、67年以降は自ら監督を務め、パフォーマンスを記録した『アモーレ』、『ソドマ』などの映画作品を発表した。
1970年には「芸術から社会的実践」に踏み出し、フリーセックス、財産共有を理念としたコミューンを設立。その様子は、デュシャン・マカヴェイエフ監督『スィート・ムービー』でも紹介された。コミューンは一時、700人以上のメンバーを擁していたが、’91年、ミュールが“未成年者への性的暴行と違法薬物使用容疑”により逮捕され、終焉を迎えた。
獄中でも絵を描き続けたミュールは、’97年に出所し、パーキンソン病と片目の視力低下を抱えながらも美術界に復帰、コンピューターを使ったElectrick paintingなどを制作した。ヨーロッパ各地での展覧会など、精力的に活動したが、2013年5月26日、ポルトガルにて死去。享年87歳。

ギュンター・ブルス(1938-)

ウィーン・アクショニズムの創立者の一人であるブルスは、自らの身体による絵画を志向し、ボディペインティングや自縛、放尿、自傷行為を含む過激な表現で観客にショックを与えた。
’60年、当時22歳だったブルスは、画家として活動していた35歳のオットー・ミュールと出会い、彼を痛烈に批判。ミュールがその後のアクショニズムに繋がる表現を開始するきっかけを作った。’64年に行われたミュールのアクション“Ana”への参加を機に、自身を絵画とするアクションを開始。’66年にはミュールと共に数多くのパフォーマンスを行うが、’67年以降、自らの肉体と機能を追求する、より過激な表現を追求した。’68年、ウィーン大学で行われたイベント『Kunst und Revolution(Art and revolution)』ではオーストリア国歌を歌いながら脱糞、国家侮辱罪で6ヶ月の禁固刑を宣告された。これを機に家族と共にベルリンに移住したブルスは、’76年までオーストリアには戻らなかった。
収監されて以降、過激なパフォーマンスからは離れ、アーティスト・マガジンの編集に携わり、絵画やドローイングに復帰した。また、反芸術を唱えるNO Art!にも参加している。
 オーストリア帰国後の’77年にはGrand Austrian State Prizeを受賞。現在、ヨアネウム博物館ノイエ・ギャラリーでは、ギュンター・ブルス・ミュージアム“ブルセウム”が常設されている。

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