作品解説
クルト・クレン
『Action Films』
1964-1967年、16mm→デジタル

身体・行為・饗宴〜オットー・ミュール、ギュンター・ブルス、クルト・クレン〜
‘60年代で最も過激なアートムーブメント“ウィーン・アクショニズム”。その代表格であるオットー・ミュールとギュンター・ブルスの戦慄的パフォーマンスの数々を実験映画作家クルト・クレンが記録した貴重な短編集。曝され、汚され、陵辱される肉体。嘔吐、自傷行為…。タブーに踏み込む身体表現が、クレンのミニマルで高速なカッティングにより、詩的な美しさに昇華される。松本俊夫『映画の変革』で紹介された『20.September』やミュールのパフォーマンス記録の参考上映付き。アートファン垂涎のプログラム!
ブルース・ラ・ブルース
『L.A.ZOMBIE』
2010年、DV、62分
中村 智道
『天使モドキ』
2014年、Blu-ray、13分

中村 雅信

『句読点』

『奇病2』

『記念写真』
『句読点』
1975年、8 mm、17分
『記念写真』
1978年、16mm→DV、3分
『奇病1』
1977年、16mm→DV、3分
『奇病2』
1977年、16mm→DV、5分
なんと40年程も前に撮られた中村雅信の作品群は、「少女はエロティックな存在」という先鋭的な概念を炸裂させており、いまだによくある「少女は聖なる存在」という感傷的な幻想と真っ向から対立し、今なお、私達を圧倒する!ホットパンツの少女が逆立ちするだけで、ミニスカートの少女が高いところに立っているだけで、私がこんなにも興奮するのは、気のせいなんかではない。フィルムには確かに、撮影者の震える心が反映されてしまっているからなのだ!
玉野 真一
『こうそく坊主』
2002年、8mm、11分
『純情スケコマShe』
2002年、8mm、15分

『こうそく坊主』

『純情スケコマShe』
この過激さをなんに例えればいいのだろう?と、玉野真一の映画を初めて観たとき、驚いた。ポストダイレクトシネマの『精神(トラウマ)と肉体(裸)をさらけ出す過激手法』には慣れてしまっていた私の目にも、ただただ肉体を酷使することでしかなし得ない動きや音の面白さを表現し、そこのみで勝負している玉野氏の作品は、新鮮であった。だって、理由がないのだ。こんなことをしなければならない理由が。トラウマ映画には必要である理由を、玉野映画は必要としない。だから過激なんだ、と思った。その証しに、玉野映画の後続者とか真似映画とか、私の知る限りでは皆無である。誰もこんなの真似できないよ。常連で出演している、怒り顔の女の子がいい。彼女の顔が、映画を風通し良くしている、と思う。
工藤 義洋
『家族ケチャップ』
1992年、16mm→DV、37分

冒頭の衝撃シーンがあまりに有名だが、そのシーンのみで語られるべき作品ではない。『自分晒しドキュメンタリー』はこの作品以後多く作られているが、ここまで人間の生の感情がフィルムに写しとられてしまった作品を、私は知らない。ほとんど理不尽とも言える母親への追求がひどくて目を背けたくなるのに、同時に、フィクションではないほんものの人間の表情や動きが写っているのが面白くて、目が離せなってしまうのだ!そんなドキュメンタリー部分もすごいが、ラスト近くの、家族三人をリングにあげて歌謡曲を歌わせるシーンが好きだ。家族が各々バラバラの思惑であることが見えてしまうのに、敢えてこのシーンを撮り、そしてフィルムが途中でなくなり、歌声だけが記録される。まさに、これが映画だ!というシーンだった。
猿山 典宏
『強制送還』
1995年、 8mm→DV、3分
『牢獄ノ祭典』
1996-2006年、DV(8mm撮影)、4分

『強制送還』

『牢獄ノ祭典』
三ツ星レストランの残飯
『びくてぃむ』
2012年、DV、7分

メルヘン絵柄のめめむちゃんがお散歩するシーンから始まるが、その過剰なメルヘンぶりに、最初から『この後何かが』という不穏な空気が流れる。そして期待通り、メルヘン絵柄をぶち壊す異形キャラ“かんぼつさん”の突然の登場により、めめむに危機が!…結構、不謹慎だ。しかし、不謹慎さに対する不快の感情を、表現の力強さのあまり快感に逆転させてしまう力が、この作品にはある。性的嫌がらせの反復画面への嫌悪が、実験映画を鑑賞する快感に凌駕されてしまう瞬間!作者本人はこの作品を、計算ではなく無意識で作ったのではないかと思う。その無意識な純粋さは、鑑賞直後の夜中、私に悪夢まで見させた。今回の出品作家の中で唯一20代で、いちばん若いこの作者の天然ぶりが、今後どういう作品に転ぶのか、楽しみだ。
小林 紘子
『序破急』
1996年、8mm、12分

露出狂に一目惚れしたり、さらに積極的行動に出て拉致してみたり、『序・破・急』どころではない展開を見せるこのエグい作品は、しかし関西人らしいサービス精神にあふれていて、ユーモアに満ちているところが、特徴だ。よくあるひとりよがりのイタい世界ではない。「でも本当にこれでよかったのだろうか」と、暴走させた妄想の先に、さらなる自虐世界が広がる。「急」までの展開を、さらに発展させるために撮られたであろうこのシーンは、それまでの暗いシーンとの比較で、目の前が開けたように視界が広がり気持ちよく、うまく積み上げたそれまでの構成を破壊していて、心地よい。
小口 容子
『堀之内の路地の子』
1998年、Hi-8→DV、22分

帯谷有理氏の企画『路地の子』シリーズに参加し、作られた作品。男性監督が女を撮る、のが多数であったこの企画で、私が男を撮るならこう、という試みで、受動的な若い男を言いなりにさせて脱がす、というシナリオを書いた。
ほぼ時間の経過どおりに撮られた、ビデオでの記録としての作品。スタッフなしの二人きりの撮影空間が、シナリオと関係なく歪んでいくのが面白かった。
※8mmという表記の作品は、フィルム上映致します